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​法華寺について

法華寺の縁起
 法華寺(ほっけじ)は、明治初年に所沢の有志たちによってつくられた法華経信仰の講社の教会場として発足しました。当初からお曼荼羅を本尊とし、鬼子母神様が守り本尊として勧請されておりました。当時は「南原(みなみっぱら)の鬼子母神様(きしもじんさま)」として親しまれておりました。その後、明治29年には千葉県中山の法華経寺(日蓮宗大本山)から法華経寺の守り本尊としての子母尊神の御分身をいただき、共に安置されて現在に至っております。当時の記録では、明治29年の世話人は12名、信徒は120名となっております。
 第2次世界大戦前までは、信者は所沢町を中心として、川越、三芳、東久留米、東村山、立川、秋川、八王子、入間川、飯能の各方面におり、その数は当時の下足札の数2,000余枚から推測しても大変なものでありました。
 講社は戦後消滅してしまいましたが、昭和27年には長谷川存佑師が住職となり(現住職は長谷川康榮)、昭和29年には現在の(単立)宗教法人法華寺が発足しました。法華寺は、法華経を所依の教典とし日蓮聖人尊定の大曼荼羅を本尊として、信者を教化育成し、立正安国の聖業に精進することを目的として諸宗教活動を行っております。
 
 

鬼子母神(きしもじん)
 鬼子母神様は、「法華経陀羅尼品」において咒を説き法華経行者を守護する誓いをたてた善神であると同時に、安産・子育ての守護神でもあります。本寺においては、子供が生まれると鬼子母神様に預けるといって、子供が心身共に丈夫に育つように祈願をかけ堂内に名札を張ります。この祈願を18歳まで続け、満願になると子供の無事成長を感謝しお礼参りが行われます。

炮烙灸(ほうろくきゅう)
 炮烙灸は、「鎌倉時代、普段から頭痛持ちの武将が、夏の土用の戦の最中に鎧兜姿で落馬をしてしまい、そのときある僧が通りかかり、武将の兜の上から握りこぶし大の蓬(よもぎ)を据え火をつけて祈祷をしたところ、たちどころに頭痛が治り武勲をたてた。」という故事にならって、日蓮宗に伝わったといわれています。
 法華寺の炮烙灸がいつから始まったのか正確な年月は分からなくなってしまいましたが、明治36年の「北田斧吉日記」には「一炮烙灸南原鬼子母神ニテ本日丑ノ日ニ付之ヲ施行セリ余トお政一人之ニ赴ケリ」との記述もあり、鬼子母神様が祀られた当初からの行事であったともいわれております。
 夏の土用の丑の日になりますと、炎暑の中で本堂での祈祷が始まり、その後に、参加者の頭の上に護苻をのせ、その上に3つの蓬を据えた炮烙をのせて火をつけます。火が消えると、住職が木剣や経文で集まった方の身体をさすり身体健全を祈願します。戦前、炮烙灸が盛んであったころには、所沢の駅から法華寺の2本の銀杏の木を目差す信者の列が絶えなかったといわれております。

​2016年度ほうろく灸祈祷

法華寺の銀杏(いちょう)
 境内入り口にあります2本の銀杏の木は、明治の初めにはすでに今の位置にあったといわれておりますが、簡素な講社として出発した法華寺の三門に当たる聖樹であります。樹高は約25メートル、樹齢は推定150余年といわれており、火災、震災、風災等の天災をも鎮め、清新な精気を放ち、四季に応じた癒しの場を醸し出してくれるばかりか、晩秋には豊饒の恵みを私たちにもたらしてくれます。この恵み・銀杏(ぎんなん)は時期になりますと信者を始め近隣の方々に配られ、‘鬼子母神様のぎんなん’として喜ばれております。

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